物語No.022

小粥の姓

年代
三方原合戦中
場所
浜松市中区曳馬町
現在の名前:曳馬町
古い名前:曳馬町
キーワード
名前の由来, 食べ物の話, 三方原の合戦, 敗走, 逃げる, 食べる, 苗字を与える, 曳馬町, 粥, 徳川家康, 源頼朝, 中区, 小粥, 粟の粥,

物語本文

 伊豆の国へ行くと、源頼朝の伝説があるが、遠州では徳川家康の話が多い。
 そして頼朝の話は、岩石を一刀の下に二つに切ったとか、八重姫とデートの途中、小川の瀬音が耳にやかましいので、『静かにせよ』と叱ったら、川の水が地下に落ちて、暫く流れてから、地上に出たとか、天下を取る勇ましい話ばかりであるが、家康のは、そんな雄々しい話は少ない。それで、
『勝つことのみ知って、敗けることを知らざるものは……』
『昔、権現、逃げるが勝だ』
―家康は権現さまと言われていた―
 など言う、金言? を残しただけあって、家康という人は、ずいぶん敗け戦さをした武将らしく、家康についての伝説は、大抵敗け戦さの、しかも腹のすいた話ばかりである。
 そうして敗けて、腹をすかして逃げながら、逐には天下を取って、徳川三百年の幕府を築いたのに、源頼朝は天下人の話を残しながらも、僅かに三代で終わったのに較べると、実にもって愉快である。
 しかも家康の敗け戦さ話が、その徳川の御代に、盛に流布されている。その上その話の大部分が、作り話や、こじつけ話で、家康のおかげで暮らしながら、その家康の敗けたのを、喜んでいると言うようなのは、なお更に愉快である。
 考えれば、雲の上のような大御所家康公も、昔はわれわれ庶民と同じだったという、いやそれ以下だったという親近感は、庶民の生活が低いだけに、言い知れない嬉しさであったのに違いない。
 だが、こうした家康話が、すべて作り話という訳ではない。中には本当にあったもの、或は片鱗があったものを、誇張したのもあるに違いないし、土地・風俗・環境が、そうさせたものもあると思う。
 浜松市の市街の北隅の曳馬町方面に、
『小粥(おがい)』
と言う、珍しい姓の家が、実に一四六世帯(電話帳による)もあって、各家とも隆々と栄えている。
 四〇〇年の昔、三方原合戦のときである。
 家康は三方原で、甲斐の雄将武田信玄の三万五千の兵と戦って敗けて唯一人、今の曳馬町のあたりに来た。その頃この附近には、民家は点々と、ところどころにあるだけの、さびいしいさびしい村だった。
『ああ、腹がへった』
 見るとそこに、小さな農家が一軒あった。家康は思わず飛びこんだ。
『おい、何か食べるものをくれ』
 農家の中には、七十歳ばかりの老人夫婦が、粟の粥(かゆ)をすすっていた。
『はい、では、これでよろしかったら』
 老人夫婦は、自分たちの食べ残りの、僅かばかりの粥を差し出した。
『おお、結構、――』
 家康は、茶碗に盛るのももどかしく、鍋の底の僅かの粥を、二本の箸で、するすると、音を立ててすすった。
『うまい。うまい』
 家康は、顔をほころばせて喜んだ。そして茶碗の上に、箸を二本並べて置きながら、
『お礼は何もないが、少しのお粥だったから、これから小粥の姓を名乗れ、おれは浜松城の家康だ』
と言って走って行った。その後この家では、
『小粥』
の姓を名乗った。そして家の紋には、茶碗の上に二本の箸のあるのをとって、丸に二引きを使用した。
 その頃は、姓を名乗るという事は、一般の人には許されず、武士だけの特権だった。だから姓を名乗ることは、武士の格に出世した事で、名誉の至りであった。
 その後この家は、浜松藩から、
『東照権現さまに、ゆかりの家』
として好遇され、代々庄屋をやったと言うことである。

附記 小粥は初めは「おがゆ」であったが、今は「おがい」と読んでいる。

参考文献
  • 文献ID: R000
  • 文献名: 家康の愉快な伝説101話
  • 著者: 御手洗清
  • 発行: 遠州伝説研究協会 発行年: 昭和58年2月20日
  • 引用ページ: 76-79
住所
浜松市中区曳馬町

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 この地点は、必ずしも物語の舞台となった場所を示しているとは限りません。


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